ウイスキーの歴史には、密造というダークな側面が深く関わっています。
スコットランドやアイルランド、アメリカでは特に19世紀から20世紀初頭にかけて密造ウイスキーが繁栄し、独自の文化を形成しました。
本記事では、ウイスキー密造の起源から、その影響、さらには現代における密造の意義までを徹底的に掘り下げます。
密造の背景や法規制の変遷、現在のウイスキー業界への影響を理解することで、ウイスキーの奥深い歴史と魅力をより深く感じていただけるはずです。
ウイスキーの歴史的背景

ウイスキーの起源と発展
ウイスキーの起源は、中世のヨーロッパにまで遡ります。
アイルランドやスコットランドの修道士が錬金術の技術を応用して蒸留酒を造り始めたのが、現在のウイスキーのルーツとされています。
当時は「生命の水(Aqua Vitae)」と呼ばれ、薬用としても珍重されていました。
16世紀にはスコットランドでウイスキーの生産が本格化。
ところが、17世紀には政府が酒類へ課税し始めたことで、ウイスキーを密造する文化が誕生しました。
そして、密造したウイスキーを当時余っていたシェリー酒の空き樽に隠したことで、ウイスキーを樽熟成させる文化が形成されていきました。
1823年には、酒税法改正され、異常な課税状況は改善。
その後、合法の蒸留所が増え、徐々にスコッチウイスキーはイギリスの産業として確立されていき、法で保護されていく存在となっていきました。
1644年 | スコットランド議会がウイスキーへ初の課税 |
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1689年 | 蒸留酒への課税緩和。結果粗悪なジンの被害増加 |
1713年 | イングランドの麦芽税が1/2の税率でスコットランドにも導入 |
1725年 | 麦芽税がイングランドと同額に |
1748年 | 発酵液による推定課税を行う蒸留事業法の制定 |
1777年 | エジンバラの公認蒸留所が8件に対して、密造所が400件以上と報告 |
1784年 | 蒸留器の容量に対して課税する措置が採用 |
1786年 | スコッチ蒸留法制定。 新たに原料穀物を輸入しての蒸留やイングランドへの輸出に対して追加税を設定 |
1788年 | ローランド免許法制定。 イングランドへの輸出は12か月の事前届出が義務化 |
1793年 | 対仏戦争により蒸留器容量に対する課税引き上げ。密造が急増。 |
1822年 | ハイランドとローランドの課税差別制度の撤廃。 ジョージ4世スコットランド訪問。禁制のグレンリベットを所望。 |
1823年 | 酒税法改正。公認蒸留所ライセンス料やモルト税が引き下げ。 |
1824年 | グレンリベットが政府公認第一号蒸留所となる。 |
日本におけるウイスキーの歴史
日本では、1923年にサントリーが山崎蒸溜所を設立したことが、日本のウイスキー産業は始まりです。
それ以前までは、カラメルや香料で味付けされたイミテーションウイスキーが日本では主流でした。
竹鶴政孝と鳥居信治郎が寿屋(のちのサントリー)で本格ウイスキーを求めてともに手を組み、山崎蒸留所を設立。
その後、竹鶴は独立し、大日本果汁(のちのニッカウヰスキー)を設立します。
本格的なウイスキー産業のはじまりから市場開拓までは長い年月を有しましたが、戦前に「角瓶」のリリースで日本のウイスキーが根付いていきます。
ところが太平洋戦争が勃発すると酒類は配給制となり、同時に闇市などで密造酒が売られるようになりました。
戦後、さらに密造酒が活発になり、「バクダン」や「カストリ」といった密造酒を売る飲み屋が無数に立ち並んだと言われています。
- バクダン
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毒性の高い燃料用アルコール”メチルアルコール”を水で薄めたもの。
戦後、闇市の飲み屋を中心に提供されるようになりましたが、死者や失明者が続出したため、徐々にその数を減らしていきました。
飲むとカッと熱くなることから「バクダン」と名付けられたと言われています。
- カストリ
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バクダンによる死者や失明者が続出しましたが、密造酒自体は減少せず、代わりに台頭したのが「カストリ」です。
安価な芋や麦、甘酒麹と蒸米などを発酵させて作ったどぶろくを簡易的な蒸留器で蒸留したもの。
素人が作るお酒だったため、衛生的に問題があったと言われています。
現在では、酒税法により厳格な法律のもとで製造されるようになりました。
そして日本のお酒は世界的な評価を受けるようになっています。
密造ウイスキーの時代

密造の背景と理由
密造ウイスキーが広まった背景には、政府の課税政策が大きく関係しています。
- スコットランド(18~20世紀)
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1644年にスコットランドで酒税が導入されると、多くの蒸留業者が合法的な製造を諦め、密造に転じました。
ハイランド地方では、険しい地形を利用して密造所が多数あったと言われています。
また、ハイランド地方の中でもスペイ川流域とその周辺地域は、豊富な水源に豊かな自然に密造所を隠しやすい険しい地形により、密集。
今では、ウイスキー造りの聖地”スペイサイド”となり、ウイスキーファンに人気の生産地区となっています。
- アイルランド(18世紀~)
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スコットランドと同様にアイルランドでも度重なる重税により、密造酒づくりが横行しました。
アイルランドの密造酒は「ポチーン」と呼ばれ、Poteen(「小さなポットスチル」の意味)から派生した言葉だと言われています。
アイルランドでは、パーラメントウイスキー(「議会ウイスキー」政府公認ウイスキーの意味)とポチーンがありました。
パーラメントウイスキーは麦芽税を逃れるためにその他の穀物も混ぜて作られており、これがのちの「アイリッシュポットスチルウイスキー」となります。
一方、ポチーンは大きいポットスチルで作ることによる税優遇が受けられない酒造家たちが、作った麦芽100%で作られる無色透明の蒸留酒で、パーラメントウイスキーよりはるかに美味しかったそうです。
アイルランドの庶民にとっては、憩いのお酒であり、今でも「ポチーン」は作られ続けています。
- アメリカ(禁酒法時代 1920~1933年)
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1920年から施行されたアメリカの禁酒法。
合法的なウイスキーの製造が全面的に禁止されたため、密造家たちが「ムーンシャイン」と呼ばれる密造酒を作るようになりました。
流通していた「ムーンシャイン」のほとんどは粗悪なお酒が多く、禁酒法が明けると姿を消していきましたが、「ムーンシャイン」をオマージュしたお酒は今でも造られています。
ムーンシャインをオマージュしたお酒としてはオーレスモーキーが有名。
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戦争によって酒類が制限されたため、配給されるお酒だけでは足りずに密造酒が横行しました。
戦後は、物資不足のためさらに密造酒づくりが加速。
政府が取り締まりを強化し、お酒造りに対して厳しく取り締まるようになりました。
現在では、酒税法により自家醸造(密造)は禁止されています。
密造ウイスキーの特徴
時代背景を鑑みると密造されていたウイスキーの中には、醸造・蒸留のプロが作ったものもあったでしょう。
ところが、特に知識のない素人が作った密造酒がそのほとんどであり粗悪なお酒が多かったと言われています。
- 蒸留設備の違い
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スコットランドやアイルランドで密造が盛んだった時代では、スチルの容量によって課税額が変わっていました。
そのため、密造酒は小さなポットスチルで造られていたと思います。
さらに、個人で銅製のポットスチルを手に入れることは、難しかったと考えると、蒸留設備のスペックによる原酒の差は避けられなかったのではないでしょうか。
蒸留器のサイズが大きいほどライトな酒質となる傾向があるため、密造ウイスキーにはヘビーなタイプが多かった可能性が高いです。
- 熟成期間
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アメリカや日本の時代背景の場合、急速にアルコールが作られていたことが想像できます。
そのため、不十分な熟成のウイスキーが多かった可能性が高いです。
現に、アメリカの「ムーンシャイン」もアイルランドの「ポチーン」も基本的には無色透明なお酒となっています。
逆にスコットランドでは、作った密造酒を隠すためにシェリー酒の運搬用ワンウェイ樽に詰めていたと言われています。
数年後、隠していたウイスキーの飲んでみると琥珀色の美酒となっていたことから、ウイスキーの樽熟成が始まったというのが通説です。
そのため、スコットランドの密造酒の中には、現在のウイスキーのように樽熟成されていたものも多かったのかもしれません。。
- 不純物の混入
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密造環境では衛生管理が難しく、粗悪なお酒も多かったと言わています。
特に戦後の日本のような状況では、不純物の多いお酒だったことでしょう。
1924年に山崎蒸留所ができ、本格的なウイスキー造りへ動き始めていましたが、戦後のウイスキーはまた一時的にイミテーション・ウイスキーの時代へと戻ってしまいました。
もちろんウイスキーが密造されていたとしたら、ちゃんと熟成させたウイスキーが作られていたことはなかったでしょう。
また、蒸留は間違った方法を行ってしまうと体に毒性の高い成分まで凝縮されてしまう可能性があります。
簡素な造りの蒸留器で知見のない人が蒸留を行う行為は危険ですが、密造酒ではそういった危険を冒したものも多かったことでしょう
密造業者が直面した課題
密造業者は常に政府の取り締まりに直面し、摘発を避けるために様々な工夫をしていました。
- 密輸・密売ルートの確立
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禁酒法時代のアメリカではカナダからウイスキーを密輸や薬用にウイスキーを製造していたと言われていますが、ギャングを中心にウイスキーの密造が行われていました。
保安官の目から逃れるために各地に密造所を隠し、ブートレッカーという専門のウイスキーの密売人たちが全米にウイスキーを売りさばいていたそうです。
対して、アイルランドやスコットランドでは、自国内で消費されることが多かったですが、中にはイングランドへ密輸されていた密造ウイスキーもありました。
1822年には、英国王のジョージ4世が禁制のグレンリベットを所望したことから、英国王室にも密造酒が持ち込まれていた可能性もあったかもしれません。
- 隠し倉庫の利用
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スコットランドのハイランド地区では、山奥隠れた密造蒸留所が多数存在していました。
山奥で造られたウイスキーは、樽で詰められ保税官に摘発されにくい隠し倉庫へ密造家たちがそれそれ工夫を凝らして保管していたことでしょう。
- 品質管理の難しさ
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密造所のほとんどは急ごしらえの簡素な設備で造られていましたことが多かったです。
そのため、品率にばらつきが激しかったと言われています。
ウイスキー密造の影響
密造ウイスキーがもたらした文化の変遷
密造ウイスキーの影響は、単なる違法行為にとどまらず、ウイスキー文化の発展にも寄与しました。
- カクテル文化の発展
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アメリカの禁酒法時代では、密造酒の粗悪な味を隠すためにカクテル文化が発展しました。
スクリュードライバーやロングアイランドアイスティといった定番のカクテルがアメリカ禁酒法時代に誕生。
さらに、カクテル技術やバー文化が洗練されました。
- スコッチウイスキーの成長
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スコッチウイスキーでは、密造時代を機に樽熟成が定番化。
密造業者がのちに合法化し、現在の有名ブランドへと発展していきました。
酒税法が改正された1824年~1900年代にかけてスコッチウイスキーは急速に成長しています。
- 禁酒法廃止に貢献
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アメリカでは、密造ウイスキーの横行によって、ギャングなど裏社会の住人が力を持つようになり治安が悪化しました。
法でお酒を禁止すると、社会に悪影響を与えることがわかり、アメリカの禁酒法廃止につながるきっかけとなっています。
密造の影響を受けた現在のウイスキーブーム
現在のクラフトウイスキーやシングルモルトブームには、かつての密造文化が影響を与えています。
- 小規模蒸留所の増加
- 独自の製法を追求するクラフトディスティラリー
- 伝統的な製法の復活
近年増加している小規模蒸留所では、密造時代をオマージュしたような小さいスチルや特殊なスチルでの製造されていることがあります。
また、グレンリベットやバッファロートレースなど、密造・禁酒法時代のウイスキーにちなんだ銘柄がリリースされました。
ウイスキーの密造時代は、現在のウイスキー文化へ大きな影響を与えたことでしょう。
元密造業者だったモルトウイスキー蒸留所
蒸留所名 | 創業年 |
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バルブレア | 1790年 |
ティーニニック | 1817年 |
グレンギリー | 1785年 |
ブレアアソール | 1798年 |
グレンタレット | 1775年 |
ストラスアイラ | 1786年 |
カーデゥ | 1811年 |
マッカラン | 1824年 |
アードベッグ | 1815年 |
ボウモア | 1779年 |
ラガヴーリン | 1816年 |
ラフロイグ | 1815年 |
ハイランドパーク | 1798年 |
トバモリー | 1798年 |
他にも、スコットランドの蒸留所には密造に関する伝承が数多く残っています。
例えば、アイル・オブ・ジュラが作られていたジュラ島では、1502年には密造が行われていたという記録がありました。
また、モートラック蒸留所は、もともと密造のメッカと言われていた地域に建てられています。
まとめ

ウイスキーの密造は、単なる違法行為ではなく、時代背景や文化に深く根ざした現象でした。
現在では厳格な法規制のもとでウイスキーが製造されていますが、密造時代に培われた技術や精神は、今なお受け継がれています。
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