スコットランドが初めてイングランドに勝利した大きな戦いで、そのスコットランド軍を率いていたのが当時無名の若者だったって知っていましたか??
- イングランドの支配からスコットランドに独立の炎を灯した英雄「ウィリアム・ウォレス」
- イングランドからスコットランドの独立を果たした解放王「ロバート・ブルース」
今回はこの2人と当時スコットランドに焦点を絞って、イギリスの歴史を僕なりにまとめてみました。
長く熱い話になるので、ぜひウイスキーでも飲みながら見ていただけたらと思います。
ウィリアム・ウォレスより少し前のスコットランド史
1263年に、北欧のヴァイキング軍に勝利を収めたアレキサンダー3世率いるスコットランド。
この年、「アザミの伝説」が誕生。以来スコットランドの国花が「アザミ」となります。
そこから僅か23年後の1296年。
アレキサンダー王に度重なる悲劇が襲い、ついに王家の血が途絶えてしまいました。
その機を狙い、イギリスのエドワード1世がスコットランドに侵攻してきます。
そしてスコットランド王国が消滅し、「運命の石(スクーンの石)」がロンドン・ウエストミンスター寺院へ持ち去られてしまいます。
運命の石は、スコットランド王家の守護石。
代々スコットランド王家はこの石の上で戴冠式を行ってきたそう。
スコットランド人にとって、大切な石が「戦利品」として持ち去られてしまったのです。
「運命の石」が持ちされてしまうことから、大きく時代は動き始めました。
ちなみに「運命の石」がスコットランドに返還されたのは、1996年になってから。700年もかかるなんて……。
ところが、イングランド側の視点では、スコットランド正統王家が途絶えたことにより起きたベイリオル家とブルース家の衝突の仲裁を頼まれたのが「エドワード1世」でした。
ベイリオル家は、その支援を受けジョン・ベイリオルが王位につきますが、その後エドワード1世がフランスとの戦争に乗り出すとジョン・ベイリオルはフランスと同盟を組みます。
それに激怒したエドワード1世は、スコットランドを急襲。
敗北したジョンは退位し、さらに「運命の石」まで没収され、見せしめとしてウェストミンスター修道院の「エドワード証聖王の椅子」の下にはめ込まれてしまいました。
エドワード1世
スコットランド史の二人を語る上でまず外せない人物となるのが”エドワード1世”です。
エドワード1世は、内政面では法整備を整え、間接民主制の基礎となるような議会を招集し「イギリス議会の父」ともいわれていました。
そして、外政面では戦争に明け暮れていました。
ちなみに法を整え、間接民主的な議会の招集を行ったのも戦争に必要な費用を捻出するためだそう。
この時すでにウェールズを併合。
自分の息子をウェールズ大公”プリンス・オブ・ウェールズ”の地位につけました。
これ以来、英国皇太子はこの称号が付けられることが伝統となります。
今でも皇太子はプリンス・オブ・ウェールズですよね。
またフランスのボルドーを含むアキテーヌ地方をめぐって、フランスと戦争。
百年戦争へと発展する火種を作ります。
戦において優れた才覚のある人だったこともあり、フランスやスコットランドなど近隣諸国に侵攻を繰り返していたといわれています。
そのためエドワード1世は名君に書かれていることもあれば、諸外国では冷徹非道な人として知られていることもあります。
映画「ブレイブハート(1995年)」や「アウトロー・キング スコットランドの英雄(2018年)」では非道な支配者ってキャラだったよ。
ウイリアム・ウォレス
スコットランド王アレキサンダー3世の家系が途絶えてしまったのを機にスコットランドに侵攻し、占領したエドワード1世。
彼がスコットランドの総督を命じたジョン・ド・ワーレンは、スコットランド人に対して過激な統治を施行していたそうです(重税、初夜権、略奪など)。
イングランドからの圧政に苦しみ続けている状況に、ウィリアム・ウォレスが立ち上がります。
歴史の記録として始めてウォレスが出てくるのは、とあるスコットランドの村でイングランド人の保安官が殺害されたという小さな事件からです。
この一件からウォレスの周りには、虐げられてきたスコットランド人たちが集まってくるようになります。
そして、ウォレスは民衆を率いて、ゲリラ戦にてイングランド軍に勝利を重ねていきました。
その吉報を聞いた各地の人々は、さらにウォレスのもとに集結してきます。
ついにウォレスは、民衆を率いてスターリングブリッジでジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と大戦に挑みます。
これがスコットランド史に大きく名を残す「スターリングブリッジの戦い」です。
圧倒的に不利な兵力からウォレス軍が大勝利をおさめました。
これがスコットランド独立戦争の中、大戦で初めてイングランドを下した戦いです。
さらにウォレスはスコットランド民衆、下級貴族に支持されるようになります。
そしてのちの解放王となるロバート・ブルースからナイト(守護菅)の称号を獲得。
実は、称号を与えた人は諸説あります。
実際ウォレスが掲げていた旗は、スコットランド先王ジョン・ベイリオルのものでした。
それに対して、ベイリオルと覇権争いをしていたロバート・ブルースはよく思ってなかったという見方もあります。
勢いに乗ったウォレスはイングランド北部まで攻め込み、スコットランドの勝利をさらに重ねていこうとします。
ところが、フランスに侵攻していたエドワード1世がこのウォレスの反乱を聞きつけ、早々にフランス国王と講和。
ここで、早々にフランスと講和を結んで、スコットランドへ駆けつけることができたところに政治的手腕の高さがわかるよね。
ブリテン島に戻ってきました。
そしてそのままウォレス軍に向けて侵攻していきます。
戦の天才エドワード1世の破壊的な報復にウォレス軍は徐々に追い詰められていきます。
ついにファルカークにて大戦を強いられる状況となりました。
これが「ファルカークの戦い」です。
この戦いでウォレス軍内の貴族が率いていた騎兵隊が、一戦も交えず撤退してしまい決戦に持ち込めませんでした。
結果は大敗。
これにより、ウォレスはナイト(守護官)を辞します。
その後1303年までウォレスの動向はよくわかっていません。
ローマやフランスなどヨーロッパ各国で、エドワード1世の抵抗運動の援助を求めていたのではないかといわれています。
ローマやフランスから援助を得ると、1303年スコットランドに帰国します。
一方ファルカークの戦いで勝利したエドワード1世は、スコットランドの侵攻を繰り返ていました。
そして1303年にスコットランドを制圧します。
ウォレスが帰国したことを聞きつけたエドワード1世は血眼になってウォレスを追いました。
そしてウォレスのかつての部下たちに賄賂を渡し、ウォレスを裏切らせたそうです。
1305年、部下の裏切りにあったウォレスは、イングランドに引き渡されました。
その後イングランドで「反逆罪」に問われます。
ウォレスは「もともとエドワード1世に忠誠など誓ったことがない」と無実を主張したそうですが‥
結果は有罪。
残虐な方法で処刑されそうです。
ウォレスの体は引き裂かれイングランドとスコットランドの4か所にそれぞれ晒されました。
恐怖によりスコットランド民衆の反逆心をそぐために晒したといわれていますが、逆にスコットランド民衆の反逆心に火をつけることとなります。
そしてスコットランド王家の血を引くロバート・ブルースを支持する声が高まりました。
ロバート・ブルース
ウォレス死後、エドワード1世の占領下のスコットランドは王不在の状態であり、ほぼイングランド王国の一地域となっていました。
その中、ロバート・ブルースはエドワード1世への忠誠と反逆を繰り返していたそう。
そしてイングランドの目がスコットランドに向いていないうちに、ロバートは自前で用意した戴冠式でスコットランド王となり、ロバート1世と名乗ります。
しかしすぐにイングランド軍の討伐を受け、それに敗北。
ロバート1世は亡命することになってしまいます。
ロバート1世不在の中部下たちは、イングランド軍にゲリラ戦で応戦し続けます。
ゲリラ戦でイングランド軍から勝利を勝ち取り始めると、再びエドワード1世が動きだします。。
ところが、エドワード1世は進軍中に病死。
イングランド軍を引き継いだ息子のエドワード2世。
彼は、あらゆる才覚が父に比べてかなり劣った王でした。
不信感を持っていた配下たちを掌握できず、イングランドを2つの勢力に分けてしまします。
スコットランドの制圧やウォレスからの勝利は戦に長けたエドワード1世の力あってのもの。
エドワード1世の死を聞きつけたロバート1世は、エドワード2世と戦うべくスコットランドに帰国します。
そしてゲリラ戦にて交戦します。
ロバート1世軍は次々と各地で勝利を重ねていきます。
その功績が認められ、正式にスコットランド国王となります。
そしてついにロバート1世は、スコットランドの軍事的に重要な拠点であるスターリング城を奪還しようと包囲し始めます。
それに対してエドワード2世は、スターリング城に残るイングランド軍に加勢しようと軍をすすめました。
大半が歩兵のロバート1世軍に対し、エドワード2世軍は弓兵と重騎兵で構成され、兵力も3倍近い圧倒的に不利な状況でした。
ところがロバート1世は、重騎兵にとって戦いにくい湿地帯(バノックバーン)を戦場に選択します。
これがスコットランド史で、イングランドに圧倒的な勝利を収めた有名な戦い「バノックバーンの戦い」です。
イングランド人の死者によってスコットランド軍は湿地帯の中、足を濡らすことなく帰路につくことができたとか……。
ロバート1世はイングランドからスコットランドを奪還することに成功します。
そしてロバートブルース(ロバート1世)は、スコットランドで最も偉大な国王のひとりとなりました。
スコットランド独立宣言「アーブロース宣言」
ロバート・ブルースがバノックバーンの戦いで勝利後、スコットランドはローマ法皇ヨハネス22世にスコットランド独立宣言となる書簡文を送っています。
これはアーブロース寺院で宣言されたため、アーブロース宣言といわれています。
- スコットランドが独立国であること
- その王がロバート1世であること
- 独立と自由を脅かす脅威は団結して排除すること
実は、ロバート1世は過去に教会内で暗殺行為を行ったことで、キリスト教会から破門にされていました。
ロバート1世の破門を取り消し、正当な王とするために明記が必要。
そのために、「国王がロバート1世である」という表記が必要だったということです。
スコットランドは教皇から正式に独立国として認められることとなりました。
ところが「脅威を団結して排除する」という表記により、スコットランドは翻弄されることとなってしまいます。
国王の権限は分散され、重臣、摂政などが比較的強い権力を持ってしまったため、スコットランド史は陰謀や暗殺の歴史として描かれることが多いです。
敗戦したエドワード2世とイングランド
話は一旦イングランドの話になります。
この時のイングランド王エドワード2世は優柔不断で政治には興味がなかったため、「英国史上最低の王」といわれています。
バノックバーンの戦いに敗れたことで、さらに威厳を落とすこととなりました。
また宮廷では、エドワード2世から寵愛を受けていたディスペンサー息子とその父が国政をやりたい放題。
実務嫌いのエドワード2世から実務を任されていたディスペンサー息子はどんどん領地を拡大し、賄賂で私腹を肥やしていました。
各諸侯から反感を買い、反乱が起きますが、エドワード2世が国王軍を動かし鎮圧。
これによりウェールズの諸侯の1人ロジャー・モーティマーが捕縛され、断頭刑に処されることとなります。
ロジャーは処刑を収監所内で待っていましたが、この時王妃イザベラと親しい仲となります。
イザベラはロジャーの断頭刑を終身刑に減刑させ、さらに脱獄、フランスへと亡命させます。
反乱を鎮圧したことでエドワード2世とディスペンサー親子の威厳だけは回復させます。
5年ほどエドワード2世とディスペンサー親子がさらに好き勝手やった国政が続いたそう。
ウェールズに領地拡大、ついには王妃イザベラの領土没収まで手を出したのです。
エドワード2世、ディスペンサー親子は各諸侯だけでなく、王妃までも敵に回します。
王妃イザベラのクーデター
王妃イザベラはひそかに夫であるエドワード2世を廃位させ、息子である皇太子エドワードに王位を継がせようと計画します。
フランスとのサン=サルド戦争の戦後処理として、イザベラと皇太子エドワードがフランスを訪れた時に実行します。
イザベラはディスペンサー親子を追放しない限り、皇太子エドワードとともにフランスに残ると言い出しました。
この時亡命させたロジャーと再会し、ともに行動していたそう。
そして1326年、ついにイザベラは軍を率いてロンドンに進軍します。
この時に嫌われ者のエドワード2世とディスペンサー親子には味方はなく、逆に各地で王妃軍は歓迎されていたそうです。
ロンドン市も王妃軍に味方し、最後にはディスペンサー親子は処刑、エドワード2世は幽閉となります。
1327年これによりエドワード2世は廃位。皇太子エドワードがエドワード3世(このとき15歳)として即位。
エドワード2世は幽閉先で何者かに殺害されてしまいます。
裏で密命を出したのが妻である王妃イザベラだとか……。
まるで昼ドラ……。
エドワード3世は15歳ということもあり王妃イザベラが摂政を行いますが、実権はイザベラの愛人ロジャー・モーティマーが握ります。
スコットランド独立
このようなイングランドの状況とバノックバーンでの勝利が重なり、ロバート1世はスコットランドの独立をより確実なものとしようと考えます。
そしてイングランド北部へ進軍。
勢いに押される形でイザベラとロジャーは、やむなくスコットランド独立を承認しました。
そしてロバート1世の息子(後のディヴィッド2世、当時5歳)と娘ジョーン(当時7歳)とを結婚させることで両国間の平和を回復させようとします。
これによりイングランドとスコットランド内にほんのわずかな期間だけ平和が訪れました。
1328年にエジンバラ・ノーサンプトン条約によりスコットランド王国が承認されます。
しかし、この結婚式の翌年に英雄王ロバート・ブルースは原因不明の病でなくなります。
ハンセン病の説が有力だが、脳梗塞、筋収縮性側索硬化症、乾癬、梅毒など様々な説があるみたいだね。
これによりスコットランドは、この歴史を知らない幼王ディヴィッド2世が即位することとなり、再びスコットランド史に混沌が訪れることとなります。
エドワード3世の親政と再びスコットランドの支配
王妃のクーデターによってイングランド王となったエドワード3世。
成人する1330年の11月に宮廷革命を起こし、摂政を行っていた母イザベルは終身幽閉処分、ロジャーを死刑に処し実権を奪取します。
エドワード3世は国内の安定化から始めます。
一方スコットランドでは、ロバート1世の前の王ジョン・ベイリャルの息子エドワード・ベイリャルが、幼王ディヴィッド2世に対して反乱を企てます。
この時エドワード・ベイリャルは、あろうことかイングランドの国内統治に成功していたエドワード3世に援助を求めます。
幼王ディヴィッド2世と統一感のないスコットランドの貴族たちには、勢いに乗っていたエドワード3世を止めることができません。
ロバート1世が苦労して取り戻したスコットランドは、再びイングランドの手に落ちます。
1333年、エドワード3世はエドワード・ベイリャルの戴冠式を強行。
スコットランド正統王ディヴィッド2世はフランスへ亡命することとなります。
これによりイングランド国内でエドワード3世は「エドワード1世の再来」といわれるようになります。
ついにはフランスとの戦争にも乗り出します。
つまり「英仏百年戦争の始まり」です。
英仏百年戦争の中のスコットランド
スコットランド王の帰還
フランスへ亡命していたディヴィッド2世でしたが、フランスはイギリスとの戦争のさなか。
フランス王フィリップ6世は、自国に亡命中のディヴィッド2世を支援すれば、スコットランドとフランスでイングランドを挟撃できると考え、ディヴィッド2世を支援します。
フランス王から支援を得たディヴィッド2世は早速スコットランドに帰国。
偽りの王エドワード・ベイリャルを破ります。
ベイリャルはイングランドに亡命。
ところが、敗戦したベイリャルはエドワード3世から見捨てられたため、その後歴史の記録から姿を消してしまいます。
ベイリャルは結婚もしてなかったため、ヨークシャーで一人隠遁生活で幕を閉じたといわれています。
デイヴィッド2世が愚王に……
1346年、勢いに乗ったディヴィッド2世は北イングランドに進軍。
しかしディヴィッド2世は、フランスからの支援をもってしてもエドワード3世軍に大敗。
ロンドンに幽閉されますが、イングランド王家の血筋であるディヴィッド2世の待遇は贅沢なものだったといわれています。
ロンドンでの幽閉は田舎のスコットランドでは味わえない裕福な生活だったそう。
ディヴィッド2世は、イングランドでの暮らしを気に入るようになります。
これもエドワード3世の戦略だったのでしょう。相当な策士だね。
1352年、エドワード3世はディヴィッド2世の釈放を身代金ではなく、スコットランド王位継承権をエドワード3世またはその跡継ぎに譲るという条件でディヴィッド2世の帰国を許します。
この条件にディヴィッド2世は二つ返事で了承し、スコットランドに帰国します。
当然のことながら、スコットランド議会は激怒します。
それによりディヴィッド2世は再びロンドンに舞い戻ることになりました。
1357年、エドワード3世とスコットランド議会との長い交渉の末、巨額の身代金を10年分割払いで支払うことで合意。
ディヴィッド2世はスコットランドに戻ることとなります。
貧しいスコットランドにとってかなり負担の大きいもので、身代金により国が疲弊していきます。
そんなことお構いなしのディヴィッド2世はとんでもない行動をとります。
それは、イングランドの裕福な幽閉生活を懐かしがって、エドワード3世に王位継承権を譲り自身はイングランドに戻る密約を交わしてしまったそう。
エドワード3世はこの密約に従って、息子ライオネルの王位継承権を主張。
スコットランド議会は、アーブロース宣言に従ってこれを否定します。
それぞれの晩年
1371年、腑抜け者となってしまったディヴィッド2世が亡くなります。
彼には子供がいませんでした。
次期スコットランド王には、ディヴィッド2世がフランスに亡命してからずっと摂政を任されていたディヴィッドの甥ロバート・スチュワートが「ロバート2世」として王位につきます。
ただこのロバート2世、イングランド外交・国内情勢・愚王ディヴィッド2世など様々な問題に悩まされ、
また老齢ということもあり、特に功績は残せないまま実権を息子たちに譲ることとなります。
そこから一時、賢王と呼ばれる王は現れますが、1707年にはスコットランド議会も閉鎖。
完全に大英帝国の一部となってしまいました。
一方エドワード3世の晩年は、王妃の死から不幸が重なり、判断力・指導力を失っていきます。
またフランスとの長い戦争でイングランドの国全体が疲弊してしまった時に、ペストの流行が重なります。
フランスにある領土、ペストにより息子も失い、そこから逃げるように愛人に溺愛します。
ついには愛人を政治に介入させるご乱心ぶり。
イングランド王室を混乱させます。
この混乱は次の代のリチャード2世にも続き、プランジット朝の幕を閉じる結果となったそうです。
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