1920年にアメリカで施行された禁酒法は、アルコール飲料の製造・販売を禁止し、社会に大きな混乱をもたらしました。
犯罪や社会問題を抑制し、より健全な社会へ向けて施行された禁酒法。
ところが、密造や密輸が横行し、アル・カポネのようなギャングも登場し、逆に治安を悪化させてしまうこととなったのです。
そして、この法律によって甚大な影響を受けた洋酒業界は、大きく時代を動かされることとなりました。
本記事では、禁酒法の成立背景やウイスキーへの影響、そして現代のウイスキー業界への展望までを解説します。
禁酒法とは何か

禁酒法の成立背景とその目的
アメリカで禁酒法(National Prohibition Act:ボルステッド法)が成立した背景には、19世紀後半の禁酒運動が大きく影響しています。
主に宗教団体や女性の権利活動家が中心となり、アルコールが家庭崩壊や犯罪の原因であると主張し、禁止を求める声が高まりました。
これにより、1919年にアメリカ憲法第18修正条項が可決され、1920年に国家禁酒法が施行。
その目的は、犯罪や社会問題を抑制し、より健全な社会を築くことにありました。
禁酒法時代の社会的影響
禁酒法は、合法的な酒類の製造・販売が禁止されたため、ビールやウイスキー、ワインの消費は一時的に減少しました。
ところが、裏社会では密造酒や密輸酒が急増。
ギャングがアルコールの供給を支配するようになりました。
多くの市民が違法なバー(スピークイージー)に集まり、アルコール消費はむしろ増加したとも言われています。
このように、禁酒法は理想とは反対の効果をもたらしました。
年 | 出来事 |
---|---|
1826年 | アメリカで「禁酒運動」が開始。アメリカ禁酒協会(American Temperance Society)が結成される。 |
1851年 | メイン州で初の州レベルの禁酒法が成立(メイン法)。他の州にも広がるが、後に廃止される。 |
1869年 | アメリカ禁酒党(Prohibition Party)が結成され、政治運動としての禁酒活動が本格化。 |
1873年 | 女性クリスチャン禁酒連盟(WCTU: Woman’s Christian Temperance Union)が結成される。女性の禁酒運動参加が増加。 |
1893年 | 反酒場連盟(Anti-Saloon League)が設立され、禁酒運動の強力な推進団体となる。 |
1913年 | ウェブ・ケニオン法が成立。州外からアルコールを輸送することを禁止。禁酒運動がさらに強まる。 |
1917年 | 第一次世界大戦中に「国家の安全のための禁酒」が叫ばれる。憲法改正の動きが始まる。 |
1919年 | 1月16日、アメリカ憲法第18条が批准される。これによりアルコールの製造・販売が違法となる。 |
1920年 | 1月17日、ボルステッド法が施行され、全国的な禁酒法の実施が始まる。 |
1933年 | 12月5日、アメリカ憲法第21条が発効し、禁酒法が廃止される。アルコールの合法的な販売が再開。 |
ウイスキーと禁酒法

禁酒法時代のウイスキーの流通状況
禁酒法時代、ウイスキーの製造・販売は全面的に禁止されていましたが、医療用や宗教儀式用の名目で一部のウイスキーは合法的に流通していました。
一方で、カナダやスコットランド、アイルランドから密輸されたウイスキーがアメリカに流入し、密造された低品質なウイスキーも裏市場に流通。
密造酒は健康被害を引き起こすこともあり、社会的な問題となりました。
禁酒法を逆手に取ったウイスキーのブランド
禁酒法時代、アイラモルトの「ラフロイグ」はクセの強さから薬用として認められており、医師から処方されていた話は有名です。
そして、一部のアメリカのウイスキーメーカーでも、禁酒法を逆手に取り、医療用ウイスキーの販売許可を取得することで生き残ったメーカーもありました。
薬用バーボンウイスキーのほとんどは、禁酒法が廃止されると徐々に姿を消していきましたが、近年バッファロートレース蒸留所が当時のボトルを模倣したシリーズをリリースしています。

大手のジャックダニエルをはじめ多くのブランドはこの時代に生産を停止していましたが、オールド・フォレスターなどの一部のブランドは合法的に販売を継続していました。
また、禁酒法で粗悪な密造酒が増える中、カティサークやカナディアンクラブなどのスコッチブレンデッドやカナディアンウイスキーのメーカーは、「本物のお酒」としてあえて密輸。
この時代に名を売った銘柄もあったと言われています。
重要なマーケットを失ったアイリッシュウイスキー
スコッチウイスキーやカナディアンウイスキーは禁酒法を逆手に取り、逆に恩恵をもたらしましたが、アイリッシュウイスキーにとっては特に厳しい時代となりました。
1900年代以前は、アイリッシュウイスキーはスコッチを凌駕するほどの人気を誇っており、栄華を極めていたと言われています。
1900年代に入ると、アイルランドでは英国からの独立運動が活発になります。
そして、1916年イースター蜂起以降アイリッシュウイスキーは大英帝国の商圏から排除。
アイリッシュウイスキーは、アメリカだけが残されたマーケットとなってしまいました。
そして1920年、禁酒法の制定によりアメリカ市場までもほぼ失ってしまったのです。
結果、多くのアイリッシュウイスキーの蒸溜所が閉鎖に追い込まれ、アイルランド国内に100を超える蒸留所がありました、最終的には2件となっています。
そして、その間にスコッチウイスキーは地位を確立し、現在のスコッチ優位の市場構造を生む一因となったのです。
市場拡大したカナディアンウイスキー
カナディアンウイスキーは禁酒法によりアメリカでの市場を拡大し、大きく成長するきっかけとなりました。
カナダとアメリカの国境を越えて密輸されたカナディアンウイスキーは、高品質で安定した供給を維持。
安定して手に入り、飲みやすいカナディアンウイスキーは、アメリカ市場で大きな人気を得ました。
また、酒を飲むためにアメリカからカナダへ国境を越えて訪れる人もいたと言われています。
アメリカ人にとってカナディアンウイスキーの人気が爆増したことは容易に想像できるでしょう。
この成功により、禁酒法終了後もカナディアンウイスキーはアメリカで強い市場基盤を持つようになりました。
禁酒法の失敗とその理由

禁酒法がもたらした影響
禁酒法は理想的な効果をもたらすことはできず、逆に密造や密輸、ギャングの台頭を招く結果となりました。
アルコールを求める需要は依然として強く、地下市場での取引が活発化。
禁酒法制定後、逆にアルコール飲料の消費増えたという記録もあります。
政府は密造や密輸の取り締まりに多額の予算を費やしましたが、完全に防ぐことはできず。
禁酒法により、国の治安だけでなく政府は大きな税収を失うことになりました。
アル・カポネと禁酒法の関連
禁酒法時代の象徴的な人物の一人が、シカゴを拠点に活動したギャング、アル・カポネ。
彼は、違法な酒類の供給ネットワークを確立し、密造酒の販売や酒場(スピークイージー)の運営で年間1億ドル以上の収益を上げたといわれています。
アル・カポネは、酒の密輸や販売だけでなく、競合相手の排除にも積極的でした。
特に有名なのが「聖バレンタインの虐殺」(1929年)です。
アル・カポネの部下がライバルのバグズ・モラン率いるノースサイド・ギャングのメンバーを偽装警官に扮して襲撃し、7人を射殺した事件。
この事件により、アル・カポネの残忍さと禁酒法の影の部分が世間に広く知られることとなりました。
また、アル・カポネは庶民の支持を得るために、貧困層への炊き出しを行うなど慈善活動も展開。
ところが、FBIの追跡により脱税の罪で逮捕され、アルカトラズ刑務所に収監されました。
禁酒法が生んだ闇市場と、その中でのし上がったアル・カポネの存在は、禁酒法の矛盾を象徴するものとして語り継がれています。
禁酒法とウイスキーの進化

ウイスキーとカクテル BAR文化の発展
密造酒や密輸によるアルコール供給が止むことはなかった禁酒法時代のアメリカですが、その反面カクテル文化が急速に発展しました。
当時の密造酒は品質が劣ることが多く、苦味や雑味を隠すために果汁や砂糖、ビターズなどのフレーバーを加えて飲まれることが多かったと言われています。
また、お酒を飲んでいることを欺くために、ジュースなどで割ったカクテルも飲まれていたそうです。
- スクリュードライバー
(ウォッカ+オレンジジュース) - ロングアイランドアイスティ
(ラム・ウォッカ・テキーラ・ジン+レモンジュース+コーラ) - オレンジ・ブロッサム
(ジン+オレンジジュース)
見た目をジュースに似せたカクテルが多く、ウイスキーより密造しやすいジンやウォッカをベースに使用したカクテルが特に発展しました。
オールドファッションドやマンハッタン、サゼラックなどのウイスキーカクテルも人気が高かったと言われています。
さらに、地下で営業していたスピークイージー(隠れバー)の増加により、バー文化が洗練され、ウイスキーとカクテルの楽しみ方が多様化しました。
禁酒法が解除された後、これらのカクテル文化は一般のバーやレストランにも広がり、現代のBAR文化の基盤となっています。
ウイスキーを軸としたカクテルの流行は、当時のウイスキー愛好家に新しい飲み方の選択肢を与え、カクテルとBAR文化の発展を大きく後押ししたと言えるでしょう。
ウイスキー業界の変革
禁酒法が1933年に撤廃されると、ウイスキー業界は大きな変革を遂げました。
アメリカでは閉鎖されていた多くのウイスキー蒸溜所が再稼働しましたが、長い禁酒法時代に原酒は枯渇。
熟成年数の足りない粗悪なバーボンやライウイスキーなどが横行してしまいました。
その結果、アメリカ政府がウイスキーを法によって定義化されるきっかけとなったと言えます。
また、禁酒法が撤廃された後のアメリカでは、「ライトでスムースな味わい」のウイスキーが好まれるようになりました。
J&Bやデュワーズ、カティーサーク、ジョニーウォーカーをはじめ、多くのスコッチブレンデッドウイスキーがアメリカ市場向けのライトなタイプをリリース。
スコッチブレンデッドウイスキーの人気獲得に成功しています。
そして、カナディアンウイスキーも禁酒法時代に得た顧客・利益をもとに本格的にアメリカへプロモートし、スコットランドをはじめ、世界の酒類メーカーの買収へ動き出しました。
禁酒法は、ウイスキー業界に大きなダメージを与えたと同時に、世界各国に法定義化・トレンドの改変、パワーバランスの変更などさまざまな影響を与えました。
現代への影響
禁酒法の歴史は、現代のアルコール規制や飲酒文化に影響を与えていました。
アメリカでは、今でも州・群ごとに異なるアルコール販売規制(ドライカウンティ)があります。
特に、ジャックダニエルの本拠地があるテネシー州ムーア群はドライカウンティです。
ジャックダニエルの蒸留所見学では、酒類を提供できない決まりとなっています。
禁酒法に関係するウイスキー銘柄
カティーサーク プロヒビジョン

まとめと今後の展望

禁酒法は、ウイスキー業界に大きな試練をもたらしましたが、その中でブランドは新たな価値を見出し、進化を遂げました。
禁酒法時代の混乱を乗り越えたウイスキー業界は、現在では世界中で愛される存在となっています。
禁酒法の歴史を知ることで、ウイスキー文化の奥深さや社会的な背景に対する理解が深まるでしょう。
ウイスキーの歴史を学びながら、時代を超えて受け継がれる味わいを楽しんでみてはいかがでしょうか?
よくある質問(FAQ)

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